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​荒神山の喧嘩

荒神山の喧嘩は,慶応2年4月8日神戸の長吉(ながきち)と,桑名の穴太徳(あのうとく)が縄張り争いから,この観音寺の裏山で200人前後の身内を投入,入り乱れての死闘をつくしました.

三州吉良港の仁吉は長吉の頼みに応じ,子分の松阪の米太郎,清水の次郎長のの身内の大政,樋屋の鬼吉らと共に戦い,穴太徳に大勝しました.

 

しかし,この戦いで仁吉は,28才の若さで兇弾に倒れ死亡しています.

 

昭和26年3月,浪曲界の重鎮広沢虎造師により,追悼碑が境内に建てられています.

 

​また、境内の鐘楼堂には、当時の銃弾の痕が残っています.
 

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